ひととき

感じたことをつらつらと。

価値の相違

こんにちは。ゆるりです。

すごくお久しぶりのブログになってしまいました。文字を残すと言うことは、ものすごく責任が問われるもので、浅はかなことを書くまいと思ってはいるのですが、結局書き終えてみると、無駄なものになってしまいがちです。今回は、最近感じる価値の考え方について、書きたいと思うのですが、これももしかしたらうまくまとまらず無駄なものになってしまうかもしれませんが、頑張ってみたいと思います。

価値。世の中にはたくさんの価値観が存在します。価値観というものは環境に大いに左右され、時には文化となり得ることがあります。その一つに、藤子・F・不二雄さんの『ミノタウロスの皿』という漫画の中に、人は食欲を満たすために食事を公の場で行うことを恥じらうことはせぬのに、なぜ性欲を満たすために性行為を公の場で行うことを恥じるのか。食欲と性欲は人間が生来持つ同質の欲であるのに、なぜそこに相違が生じるのか。これは一種の哲学に分類されると思われます。答えがわかるものではなく、これも人間が発達する上で環境に応じて生じた結果と言うことしか出来ませんが、これは討論したら面白そうな議題ではあると思います。もちろん、人類とは異なる種族で、僕らと異なる価値観を持つ人たちがいても、不思議ではありません。

このように、世間には無数の物事に無数の価値観が存在することを、上述したことを読まなくても、恐らく僕らは肌で感じていることだと思われます。だからこそ、理解し難いことでもお互いの価値観を譲歩し合い、お互いが理解することに努めようという文化相対主義という考え方が生まれている現在であります。

このように考えると物事に善悪を考えることは非常に不毛なことだと思えます。しかし、不思議なことに世界には絶対悪、絶対善と謳われているものがあるわけで、明確な例を取り上げれば、「人を殺すこと」は悪であると見なされていることです。しかし、果たして人を殺すことは本当に悪なのでしょうか。こんなことを言うと殺人賛成なクレイジー人間に思われそうですが、価値観の違いを考える材料としてはこれはふさわしいものです。僕らは人を殺すことを悪とみなしていますが、実は僕らはそれと同等なことを行っていることを少し考えれば再考の余地が生まれるはずです。僕らの視線を動物の視線に変えてみるだけです。僕らは動物を命に感謝するという名目のもと、あたかも動物を殺すことが許されたかのように、動物を殺して食料として命を頂いてます。動物と人間の命は平等でありながら、動物を殺すことには黙認しているのです。じゃあ僕らは動物を殺さず、自分達が飢え死にすればいいのかって言う話ではありません。自然は弱肉強食の世界で、強者が弱者を食らう。これは自然の摂理です。同種の者同士でも、強者が弱者を食らうことは別になんの問題もありません。動物もその事に文句を言っているわけではありません。ありのままを受け入れているのです。

 

ここで、前述した「人を殺すことは悪」の話に戻すと、やはりこの事を悪と言うのは難しい気がします。悪と考えるのも1つの価値観に過ぎず、全人類の共通意識とすることは不可能なことに思えます。仮に人食の生物が現れたとしたら、僕らにその人たちの価値観を踏みにじる権利はあるのだろうか。それは僕らのエゴになってしまうだけではないだろうか。こうなると、物事に価値観がある限り、善悪を図ることはできないし、お互いの価値観に干渉することは難しいと思うこの頃でした。

 

 

あでゆ