ひととき

感じたことをつらつらと。

初めての感情

昨日、深夜の3時に目が覚めた。

目が覚めた理由は、外から聞こえる大量のパトカーのサイレン音だった。

 

しかし、今回の論点はここではない。

 

その後、再び眠りにつこうと思ったが、全く以て眠れなかった。眠れないばかりか、なぜか自分でも信じられないくらいに、とある一人の女性のことで頭がいっぱいになったのだ。その女性については、以前、好意を寄せていた時期があったことは間違いないが、ここ数年間、連絡を取ることもなく、こっちから積極的にアプローチしていたわけでもなかった。稀に、思い出すことはあったが、淡い思い出程度で特に気を留めることもなかった。しかし、その夜、なぜかその彼女のことが頭から離れなかった。そして、彼女に凄く自分の想いを伝えたい気持ちになった。あのときの感情は今まで感じたことがないほど、膨れ上がったものであった。しかし、感情が昂る一方で、冷静な自分も存在していた。こんな真夜中に、しかも、ろくに今まで彼女と連絡を取っていたわけでもない自分が、唐突に自分の想いを伝えたどころでどうなるのか。彼女にとっては、朝起きたら迷惑極まりないメッセージがあるだけである。そして彼女は自分とは違い、決して自分に好意を抱いているわけではない。返信に困り、筆者の一方的な自己満に付き合い、なんとか筆者を悲しませない方法を考えなくてはならない始末である。そんなことをひたすら考えては、昂る自分と闘っていた。

 

それでも深夜の僕は、どうしても伝えたい気持ちでいっぱいだった。頭のなかで彼女にどのように想いを伝えるか、何度も何度も文章を推敲し、考え抜いていた。そしてその度に冷静な自分が何度もその感情を押し込めようとした。

 

結果、僕は1時間ほどその作業を黙々と脳内で繰り返し、ようやく冷静な自分が打ち勝ち、眠りについた。

 

あんな感情の高ぶりは初めての体験だった。息が苦しくなるほどの高揚だった。

僕はあの深夜に彼女に想いを伝えるべきだったのであろうか。今もまだ考えている。

 

 

あでゆ。

お米サワー報告。

こんばんは。

ゆるりです。

 

前回のブログでお伝えした、お米サワーですが、結果として成功しました。

 

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はじめそんなに炭酸感がなく不安でしたが、冷蔵庫で冷やしてたら、いつのまにか炭酸が溜まりすぎて、いざ飲もうとした時に、ふたを開けたらボッっと大きな音がして少しびっくりしました(笑)すこしふたをゆるめに締めておけばよかった。。。味のほうはすこし癖のある濃厚な味でしたが、とても美味しかったです。しかし、少し気になったのはイーストのにおい。後々調べてみるとこれはイーストを入れる際に、ヨーグルトも足すと発酵菌のにおいも消すことができるらしいので、次回作るときは入れてみようとおもいます。1合のお米から約700mlのサワーを作ることができて、仕事から帰ってきて一杯のむ楽しみが増えました。しかし、調子に乗って飲んでたらあっという間になくなってしまったので、また近々作ってみたいと思います。

 

※次はランチの女王でおいしそうだったビシソワーズを作ってみたいと思ってます。

一回作ったことがあるんですが、サラサラ感がでなかったので、再チャレンジして次こそ成功したいと思います。

 

 

 

 

ではではあでゆ。

 

 

 

 

価値の相違

こんにちは。ゆるりです。

すごくお久しぶりのブログになってしまいました。文字を残すと言うことは、ものすごく責任が問われるもので、浅はかなことを書くまいと思ってはいるのですが、結局書き終えてみると、無駄なものになってしまいがちです。今回は、最近感じる価値の考え方について、書きたいと思うのですが、これももしかしたらうまくまとまらず無駄なものになってしまうかもしれませんが、頑張ってみたいと思います。

価値。世の中にはたくさんの価値観が存在します。価値観というものは環境に大いに左右され、時には文化となり得ることがあります。その一つに、藤子・F・不二雄さんの『ミノタウロスの皿』という漫画の中に、人は食欲を満たすために食事を公の場で行うことを恥じらうことはせぬのに、なぜ性欲を満たすために性行為を公の場で行うことを恥じるのか。食欲と性欲は人間が生来持つ同質の欲であるのに、なぜそこに相違が生じるのか。これは一種の哲学に分類されると思われます。答えがわかるものではなく、これも人間が発達する上で環境に応じて生じた結果と言うことしか出来ませんが、これは討論したら面白そうな議題ではあると思います。もちろん、人類とは異なる種族で、僕らと異なる価値観を持つ人たちがいても、不思議ではありません。

このように、世間には無数の物事に無数の価値観が存在することを、上述したことを読まなくても、恐らく僕らは肌で感じていることだと思われます。だからこそ、理解し難いことでもお互いの価値観を譲歩し合い、お互いが理解することに努めようという文化相対主義という考え方が生まれている現在であります。

このように考えると物事に善悪を考えることは非常に不毛なことだと思えます。しかし、不思議なことに世界には絶対悪、絶対善と謳われているものがあるわけで、明確な例を取り上げれば、「人を殺すこと」は悪であると見なされていることです。しかし、果たして人を殺すことは本当に悪なのでしょうか。こんなことを言うと殺人賛成なクレイジー人間に思われそうですが、価値観の違いを考える材料としてはこれはふさわしいものです。僕らは人を殺すことを悪とみなしていますが、実は僕らはそれと同等なことを行っていることを少し考えれば再考の余地が生まれるはずです。僕らの視線を動物の視線に変えてみるだけです。僕らは動物を命に感謝するという名目のもと、あたかも動物を殺すことが許されたかのように、動物を殺して食料として命を頂いてます。動物と人間の命は平等でありながら、動物を殺すことには黙認しているのです。じゃあ僕らは動物を殺さず、自分達が飢え死にすればいいのかって言う話ではありません。自然は弱肉強食の世界で、強者が弱者を食らう。これは自然の摂理です。同種の者同士でも、強者が弱者を食らうことは別になんの問題もありません。動物もその事に文句を言っているわけではありません。ありのままを受け入れているのです。

 

ここで、前述した「人を殺すことは悪」の話に戻すと、やはりこの事を悪と言うのは難しい気がします。悪と考えるのも1つの価値観に過ぎず、全人類の共通意識とすることは不可能なことに思えます。仮に人食の生物が現れたとしたら、僕らにその人たちの価値観を踏みにじる権利はあるのだろうか。それは僕らのエゴになってしまうだけではないだろうか。こうなると、物事に価値観がある限り、善悪を図ることはできないし、お互いの価値観に干渉することは難しいと思うこの頃でした。

 

 

あでゆ